昭和40年12月28日 朝の御理解
昨夜の御祈念に、久富勇さんの奥さんが毎晩参って見えられますが、昨日こゝでお届けをされるのですが、昨日市場に出すためのお野菜を揃えて居った。お野菜を揃え揃え御心眼を頂いた。御心眼というのは、目をつぶっとかなければ頂けないとか、夢の様にして頂くとか、という様な事もありますけども、この肉眼で見る事がありますですね、心、心眼、やはりそれがその、この、どういう事を頂かれたかというと、大きい見事なトラックが、私の目の前に止まっとる。
そしてそのトラックに西日本なんとか、と書いてある、西日本と書いてある。そしてさあ早く乗りなさいあゝ、今んとば御心眼お野菜揃えながらそれを頂いたと、こういうわけです。皆さんどういう様な事だと思いますか、私も昨日こゝで午前中の奉仕の時でした。やっぱり こう目をあけて肉眼でです、そこの私の何時も御祈念さしてもらう そこの後の所で、内田さんとこの孫に力さんというのがおります。
中島力という、小さい頃何時もこゝに遊びに来とる子なんです。その子供がそこに寝てるんですよね、アラこげんとこに寝てから、私は思いよったら目をこすりこすり ね、その寝とったのが、こう起き上ってるとこを頂き あら 今んと御心眼じゃった とそんな事をですね、これなんか私、大変な事だと思うんですね。私は椛目の場合、もうぼちぼち本気で力を受けておる人達が、目を覚まさなければならない時期が、来なければならんという思いが致しました。
椛目でもやっぱり、十五年信心さして頂いとるうちに、自分も知らん間に力を受けてるんですよ。ね、そういう人達があるんです、又はその他にあるかも分りませんけれども、とにかく力をもった人でなからなければ、例えば何にもならしません。ここに千斤なら千斤のものを、抱えなければならんというのがです、百斤持てれる人が十人集まればいゝのですから、そうでしょうが、ね、
けれどもその本当に持とうと思えば持てれる力をもっておる人がね、眠とったっちゃ、やっぱいかんですもんね。見とるだけでもいけませんもん、それがその力というね、力をもってる人が、はあ-目を覚ます時期がくるなと、私はこういう風に思うた。皆さん、ひとつ思うてみなきゃいけませんよ。自分は力を受けておると ね、けれども、お役にさほど立っていないとするならば本当に目を覚まさなければいけません。
それこそ、寝とるもんな起しゃいゝのですよ、起してまわるくらいな私は信心が、今の椛目には必要じゃなかろうかと、こう思います。ま、それはさておいて、只今の久富さんが頂かれたその事、どういう様な事だと思われますか。西日本という 何々と書いた大きなトラック、さあお乗りなさいち、合楽にあゝして御造営が始まってから。
いよいよ椛目が布教所そして教会という様な看板を上げてよい様な時期が、近い将来にあるだろう。その時の に、まあ いきなりに教会の名前をつけちゃいけんですよと、私がつける、ね。それも小さい名前じゃいかん、大きな名前がえゝ、例えていうならば、善導寺の教会を善導寺教会と云わずに、三井教会と呼ばれるなんかは、これはいわば大きい表現なんですねえ。
善導寺教会といわずに 当時は三井郡の中心にあったと云う意味でしょう、三井教会という事にしてあるですから、まあ新三井教会とか、東三井教会とか、という風になるかも分りません。それでも出来るならば、あすこは合楽に間違いないのですから、神様に色々頂いとる事もあるから、合楽教会としたいのでございますけれども、大きな名前をつけにゃいかんと仰るけん、私ゃ親先生に申し上げた事でした。
そんなら親先生、どげな風でしょうか、西日本教会つけたら、大笑いした事でございました。この前に日吉先生が見えた時の話なんです。どうでしょうか、西日本教会ちいってこげえ大きな教会、名前だけなっとん、いっちょ大きゅうつけたら、どうじゃろかと云うてから、笑うた事でした。けどね。私ゃそういう意味だと思うたんです、も、本当に許されるならばです、ね、
私ゃ西日本教会ち、つけたい様な思いが致しますですね、この西日本教会にいわば車といえば、徳の事でしょうか、その徳に、さあどうぞと云われてもです、乗らなかったら、ね、この世は徳の船に乗って渡れと、久留米の初代は云っておられたそうですが、徳の車に乗れと云われてもです、乗らなかったら仕方がない、そんなら、乗るということはどういうようなことか。
先日から、ちょうどクリスマスのプレゼントに、子供達にまあ、何人かの御信者さん方がいろいろなものを、プレゼントして下さっておるんですね。おもちゃもあればチョコレ-トもある、まあ色々その、あっちこっちから頂いとります中に、本当にお金を出してお金で買うたら相当な金額じゃろうと思う、同じおもちゃでも今頃のおもちゃは、なかなか見事なもんですね。
大きな戦車、戦車をその 組み立てなければならない様に出けてる、電気仕掛けになってですね、釦をいっちょポッと押すと、ダァ-ッとですね、大人でもそれを見とって、まあ楽しい様なおもちゃなんです。それをあの、栄四郎でしたか、幹三郎ですか、どっちかがそれを頂いとる、それぞれに頂いとるわけです。それを。ところがその、やはりなかなか、やっぱ頭脳がいる。
私共では出来やしません、小さい部分品がいっぱい入っとって、それをずうっと組み立てなければならん、兄ちゃん達までかせしてから、夜通しの様にして組み立てて、夕べ昨日ん晩でした、そこへ持って来て見せよりました、見事にでけとります。私はその、徳を受けるとか、おかげを受けるという事はですね、それは丁度、そういうその組立の、いうならおもちゃの様なもんだと、こう思うのです。
ここにね、これを組み立てればこういう様な素晴らしい幸せという車なら車にあるけれども、それは組み立てなければです ね、金光様がどんなにおかげの受けられる子孫繁昌の道を私は体得させてもろうて、道を組み立てなければです、そういう道に出る事は出来ない、子孫繁昌の道は生れてこない。どこの部分品をひとつおろそかにしても、もうそれでは動かない。
私は、十年も前だったでしょうか、お夢にそんなお夢頂いた事があった。 道を歩かして頂きよったら、小さい「 」電気の玉が落ちとる、拾わして頂いた、そしたら電池がひとつ落ちとる。ねあの「 」の中に入っとる様々な部分品が、ひとつひとつ、ず-っと落ちていっとるんです、それを私がいっちょいっちょ拾ってから、それをこう組み立てたり「 」ちょっとおさえたら電気がパッと道の前に 道にあかりが灯ったところを頂いた。
どの部分品ひとつ拾わなくても、これいっちょくらいよかろち云うたら、光にはならないです、ちゃっともう「 」こゝば押さえさえすりゃいゝですよ、といったような訳にはいかんですね、信心のおかげというものは。その、そこで私共が、実意丁寧神信心ということが、いわれる訳なんです。実意丁寧 どれをおろそかにしてはいけないて ね、そんならそれをおろそかにするという事はです。
難しい事かというと、本当にこちらが信心にならせてもらえば、でけん事はないという事。実意丁寧をモット-とし、そしての神信心になってくればです、ひとつも難しい事ではない、いや実意丁寧を欠いた方が難しいです。欠けばすぐ分る、ねじひとつでも いわば緩んでおったら、つかん、そういうような、ま、いう様な事はとても私だんでけんという様な、難しい事ではなくて、誰でもでける事だと。
実意ていねいになれば、実意ていねい、神信心になれば、そうさして、もらわなければ前にとおられんのだ。前にすすんじゃ行かれん、実を云うたら。それを平気で、いわゆる前に、進んでいっておるとするならばです、それは目のあらい、おろそかな信心だと、云わなければなりません。昨日、鳥栖から上野さんの娘さんが、中島という 中島という家に縁についとります。
三番目の娘なんです。子供が出来ておかげ頂いとった、ところがその、段々段々やせてくる、それで専売公社に勤めとりますから、診察したところが、こうこういう病気だという事になって、よぎなく入院しなければならなくなった。それ半年ぐらい入院しましたでしょうか、そりゃもう本当に不思議な位におかげを頂きましてね、先日から退院のおかげを頂いて、現在鳥栖の里の方へおるわけです。
昨日お礼に出て参りました。それであの、御神米をお下げ頂きますから、御神米を下げさして頂いとりましたら、神様からあのどんな事でも祈れる心が神心じゃと ちょっと違うかもしれませんけれども、私ひかえときゃ良かったですけど、ちょっと違うかもそういう意味です。どんな事でも祈れる心が神心じゃと、ハゝア-可愛いと思う心が神心じゃというのを、もう少し分かり易くして下さった様な気が致しますですね。
例えばこれ、のり子さんといゝますが、のり子さんがです、自分の主人の事やら、自分の子供の事やら、自分の兄弟の事やらは祈れるけれども、自分に意地悪をしなさる例えば小姑がおる、自分の事に何時も皮肉さっしゃる姑親がある。例えばですよ、ね、その小姑の事であろうが、姑親の事でろうがです、自分にはいわば何時も自分をいじめておる様な人達の上にでもです。
思いをかけ、祈られれる様な心こそが神心だと こう自分の好きな主人の事、可愛くてたまらん子供の事、これ祈れるのは当たり前の事。ね、信心さして頂いていわば仇役の誰彼の上の事までゝす、仇役と思わずにそれが祈れる心が神心じゃと、お互いその神心目指して信心しておる訳なんですよね。そしたらですもう本当に涙をポロポロ流してから、先生恐れ入ります、おかげを頂きまして有難う御座います。
私は鳥栖を出る時から、こゝへ着かして頂く迄です、本当に里に今日帰らして頂くというです、昨日おかげ頂いて帰らして頂きますが、あちらに行けば大変複雑な、所謂子姑がおり、姑親のおられるというお家なんですが、誰の事でも祈れれる様な私にならにゃならん、祈れれるような私にならにゃならん、祈れれる様になったらどんなに有難い事じゃろうかあ-と思い続けてきたら、そういうお書き下げだった。
先生もうおかげを頂きまして有難う御座いました と云うてから、本当に心の底から、ありゃ皆さんが頂かれてもおんなじなんだけれども、そういう事を思い続けてきておる者が、そう頂いた時に愈その有難さが、自分の身につくような気がするんですね、やはり、そういう神心になりたい。ところが実際、その神心が無くてです、自分の、いわば一番関係のあるところの、子供とか親、主人の事は祈れるけれども。
小姑の事やら姑親の事やらは、そういう切実さをもって祈れないという事にです、それが祈れるようになったら、どんなによかろうかと、こう思うて思い思いきたら、そういうお繰り合わせを頂いた、ね。昨日、総代会が善導寺でございましたから、まいりました。参りましたら誰-もおりませんもん そしたら、もう見えたばっかりで皆がすぐ帰られた。結局私と親先生だけ、わけでございましたけれども。
まあ色々お話が御座いました中に、昨日はあんた方総代さん達がきた、こういうお願いをしていかれたが、大体あんたはどういう気持ちでおるかと いうのは、この頃この謝恩祭の時親先生が、私の本部学院入学の事を、神様へご報告をなさった。祝詞の中にそれが入れてあった。それを丁度総代さん達参り合わせてあって聞いて、それがあゝいう大会になって、騒然とした訳なんですね。
椛目と致しましては、そして、やらんのやらんのというまあ、色々な話の結果です、兎に角もう一辺総代さん方が代表で、それはやらんとは申しません、出来るならば、どうぞ今椛目としてもこういう大きな、御造営という事業に取り組んでおるのでございますから、今、親先生がおられなくちゃ困りますから、どうぞ来年という入学を、再来年に延ばしてもらう訳にはいくまいか、という様な相談に行かれた。
永瀬さんが仰ったそうです、先生 どうぞご自分が御普請をしとんなさる気持ちで、ひとつ考えてみて下さいち ね、例えば夫婦の者がこゝに家、普請をしよるとに、主人の方がおらんというなら、家内はどうして良いか分らん様な、現在椛目の状態でございますから、どうぞひとつそこんところを考えて下さい、と云うてその、まあ話してきたが、大体あんたの気持ちはどうかという訳なんです。
それで私は云うといた、あんたげん、そげなこつば云いよる信者がおるなら、その急先鋒の人達を、一辺こちらへやんなさい、したらその人達に良く話をして聞かせるから、という事をまあ云うたとこういう訳なんです。丁度その日、皆さんが帰られた後に久留米に会合があって久留米に行かれて、それを東町の田中先生に話されたらしいんです、それでそれは荒巻先生あんたじゃそれは難しかろけんで、私が話してやろう。
椛目に主だった信者にいっちょ私、来るごと云うてくれんのというといたから、あんた方主だった、いわゆる急先鋒の人達を、東町の教会にやれと、こう 昨日云われる訳なんです。私は本当に、そればってんまあ 思い上りもえゝとこだと思うたですね、本当に親先生あなたが分からせきなさらんとは、田中先生が分からせきんなさる筈がないじゃないですか、と私が云うた。
又、これだけは親先生、あなたでも田中先生でも出来ません、私より他に了解させきる者はおらんと、私が申しました。親先生、そげなこつ誰彼に仰らずにですたいね、田中先生とこに、私がこうして行こうという総代がんならいざ知らずだけれど、まずだあれも居りますまいと云うてから、急先鋒というのは、昨日来た総代達どんが急先鋒ですよち云うたら、たまがっとられました。
本当な事云うたらです、そりゃ口には云いません、いっちょん云いません、云いませんけれども、一番の急先鋒はなんというても私の家族のもんですよ、と私が云いました、私をやりたくないというのは、特に長男なんか云うとります、今、お父さんば学校にやるごたるなら、ぼくは何の為に学校に行ったか ち 云いよりますと、私が云いましたね。けども私は、そこを追求しようとは思いません。
何故 来年行けと云われる事を何故かと、追求しようとは思いませんけれどもです、私自身はやらせて頂くならば、本気でやはり御本部で、御霊地で 金光様の御もとでです、本気でひとつ清まりに行こうと、私だけは覚悟しとりますから、ね、わざわざ東町に私の総代をやるといった様な事は致しません、と私は申し上げた事でございます。そして色々聞かせて頂いたんです。
善導寺の親先生も、出来るならそうもしたい様な、ね、お気分もあるらしいけれども、周囲の教会、特に甘木関係なんかがです、ね、いわゆる急先鋒になって、椛目をどうでも来年は御本部にやらなければ、教務所自体も立場が困る、といった様なところまで、非常にデリケ-トな問題になっておると、いう事なんです、ねえ。どんなに考えてもです、これがもう本当に 私は今日御祈念の時思わしてもらいました。
全教一心全教一家という事は、も、いかに全教一心全教一家と云うておっても今の様なお道の生き方では、全教一心全教一家の実は絶対にあがらないと、私は思いました。これはです、全教一家という事をおいてです、本気で全教一心する信心のおかげ頂くより以外にない、全教が一心さえすればです、もう全教一家は いわんでも自ずと一家にならなければおられない。
こゝでそういう大きな事云わずに、自分一家の事考えてもいゝんですねえ、一家が円満にならにゃ円満にならにゃというて、円満になる事だけにつとめたところで、それは破れ饅頭と同じ事で、どっからか、アンコが出てくる様なもんじゃ。それよりもやっぱり、一家中の信心が一心しなければ、今迄の今の信心ではいかん今迄の信心じゃいかん、その信心がいわば教祖の神様の御信心のです。
それこそ、さわれば温かみを感じる様な信心、突つけば血が飛び出るような生き生きとした信心、生きた信心そういう信心にならせて頂く時にです、全教一家 期せずしてなると、私は思うんです。例えば人情で考えてもです、今椛目が本当に、やっとかっと、どうでもこうでも、余儀なくあすこに御造営をしなければならない羽目になった、大変だろう、それにあの大変な事をしとるのに。
サア中心になる大坪さんが、御本部に行ったんじゃなんだろうから、それは来年ぐらいに 再来年ぐらいに、という様な人が一人ぐらいありそうなもんだけれども、みんながそれはとにかく あゝいう立派な言葉にはです、教会会堂もできよる、ま、いうならばあれだけの信心もでけておるから、勿体ないから早う御本部にやらなければならん。一応立派なお話なんだけれども、来年やらねばならないというところに。
これは、ついていくならばちょっと、おかしな事になってくるじゃないですか、だから、あれを私は突こうとは思わん、甘木関係はこうだから、という風に、昨日もおっしゃられたんだけれども、そん時 私は頂き乍ら、御心眼に頂くのがです、あやつり人形を頂くですね。甘木の初代はですね、天地の親神様が人形使いなら、私しゃあやつり人形じゃとおっしゃった。
手を上げよとおっしゃら、ハイ足を上げよとおっしゃらハイと云って、親神様のおっしゃる通りに私はならせてもらう、親神様は人形使いとこう仰って居られたげなが、その当時の甘木の親先生は確かに、それこそいわゆる観客の方から拍手喝采、千両と素晴らしい人形でおありになったろうけれども、私が拝むところの人形はですね、歌舞伎で云うゴブサカエをした、いわゆるゴブサカエと云うのは、悪を現したものです。
石川ごえもんなんかがしとまでしょうが、こうやって あれはゴブサカエと云います。定九郎がしとる様なやつです、それがやっぱり あやつり人形なんですよね、そのゴブサカエのその人形がです、こうやって、あやつられてるところを頂きました。ハゝア-やっぱり甘木とでも、善導寺とでも誰とてもです、教務所とても、やはり天地の親神様にあやつられておるんだなあと、いう事をですよ。
しかもその、あやつられておる役がです、誰々さん達は悪役をつとめておられるという事になるなるのですよ。神様のお働きなんだ。それは 過去椛目の十五年の歴史を、ひとつ皆さんが思い思うてみられるといゝでしょう。何時どんな場合でもそれが、なる程おかげのもとになっている、ね、なる程神様は、西日本 本当につけてやれゝるもんなら、許されるもんなら、神様の方が西日本教会という様な名称でも、送りたい様な思いでおられる様な気がするではないですか、ねえ。
それはどういう名称がつくやら分りませんに致しましてもです、そういうおかげを私共が頂かして頂く為に、こゝんところの信心が分らして頂いて、それをひとつひとつです、実意丁寧にネジなり部分品なりを、間違いなく組み立てて、それが本当に動きだすところの、しかも西日本という様な看板のもとにです、その車が動きだし、そして皆をこれに乗せてくれるだけのです、おかげを頂かなければならんと思うですね。
為にはです、どうでもひとつおかげを頂きまして、先ず椛目自体がです、一新しなければいけません、どういう風に一新するか、十五年間又は十年間、又は五年間信心の稽古をさして頂いた、いわば本当に自分の力というものを現す時に、今現さなかったら何時現すか、その力を頂いとる者が、ねえ 眠って居る様な事ではならんじゃないですか。もういゝ加減に目を覚まさせて頂いて、御造営の事はいうに及ばず。
私が一年間、こういう最中にです、外す様な事があっても。日頃の信心の力にものをいわせて、おかげを頂いて下さらなければならない、そこに愈、自分の力を確認する事が出来る。同時に現在のこの力より よい強い力を頂く為の修業がなされなければならない。そして思わして頂く事は、どこ迄も実意丁寧、いわゆる神信心をもってです、おかげを頂かしてもらい。
答えにはどの様な事にでも祈れれる私になるという事なのである。ねえ、誰の事でも祈れれる仇役の誰彼の事でも祈れれる内容を、身につけていく事である。そしていうなら神心にならせて頂く事を目指す事である、そしてどんなおろそかなネジひとつでも、どんな小さな部分品でも、それを粗末におろそかにしない様に、もしそれが おろそかになっておる時にはです。
もう前の方には進まれないくらいな私は信心をです。お互いこの際、身につけさせて頂かなければならないという風に思います、どうぞ皆さん眠っておる人は本気でひとつ、目を覚まさなければいけません。一今覚まさなかったらいつ覚ますか。そういうひとつの運動がです、椛目全体の中に展開されてくる。そういう様な事がです、椛目が一新するという事ではなかろうかと思うですね。
どうぞ。